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表示の時代の中における価値の大切さ 2011年7月号 [洗心]

 仏壇の原産国表示と品質表示のルールとなる公正競争規約案制定に向けて業界が動き始めたのは昨年夏。そして多くの話し合いを経て練られた公正競争規約案が七月七日、消費者庁に提出され、原産国表示・品質表示の実現が近づいた。

 この間、報道の立場として多くの方々の意見をお聞きしてきたが、その中で気になる言葉が「うちは国産中心にやってきたから大丈夫」という何店かの小売店の言葉だ。

 この言葉の持ち主の全てがお店で何かの表示をしているのかと言えば、決してそうではない。「うちは国産中心」というのは、お客様に対していかにも良品と信頼を販売してきたように見えるが、無表示という点では海外産中心で原産国表示をしてこなかった店と全く変わらない。公正競争規約は正しく商品の内容をお客様に伝えるという極めて単純な原則の上に立つものだが、業界の感覚をよく表現している一言だ。

 次に感じたことが、仏壇というパーツの多い製品において、原産国表示をすることの難しさと、品質表示の難しさである。百%海外産の仏壇なら分かりやすいが、むしろグレーゾーンにあるのは国産仏壇の方だ。

 今回の規約案によれば仏壇の品質表示は仏壇の前面を基準としている。お客様が棚回りで水をこぼして塗装下のMDFがふやけた時のことは全く考慮されていない。どのような材料が仏壇に使われているのか、小売店は表示以上の情報を常に把握しておく必要がある。

 品質に関して表示されるのは製品全体の一部であり、金仏壇の場合であれば、錺、宮殿、彫刻、蒔絵に関しての品質表示事項は全くない。

「お客様はそこまでの情報を求めていない」という声も耳にするが、現実はそうではない。「そのお店自体がそこまでの情報を求めていない」に過ぎない。つまり、お客様が情報を求めていないという言い訳を以て自分の情報不足を正当化しているに過ぎない。メーカーから得た情報は仏壇本体前面の情報に過ぎず、製品全体の価値を伝える能力も問われる。

 表示に関しての仏壇店の心配の一つは「原産国表示をした海外製品を販売する」ことにある。大半の仏壇店にとっては初めての体験だが、品質が材料×手間×技術という数式の上に成り立つのであれば、国産仏壇、海外仏壇を問わず品質の説明ができる仏壇を販売することが最も大切になる。

 良い材料、高い技術、返品の心配のない製品、つまり「お値頃で品質自慢の製品」であることが最大のポイントとなる。海外製品の場合、現地で日本人が指導している商品であることも付加情報として必要である。

 仏壇店自体が製品の価値を知ることで、良い製品を正しくお客様に提供して行く。工芸という価値に国境は全くない。優れた工芸は、どの国に行っても優れた工芸だ。もちろん仏壇が工芸であれば、の話であるが。

平成23年

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命の由来を知ることが 命を維持するという真実 2011年8月号 [洗心]

 記憶、思い出は自分の命をつなぎ止める大切な役割を担う。さらに先祖が命をつなぎ止める錨の役割を果たす。錨が切れれば命は浮遊する。ここで言う命とは、医学的な命ではない。自分の生存、存在という意味での命である。

 もし、自分の父母、祖父母が誰なのか分からないと思うと恐ろしい。まるで浮遊した感覚になるだろう。永遠にどこかに辿り付かない浮遊感だ。そんな浮遊感は現実的でないかもしれないが、浮遊しかかる人は実際にいる。例えば父母と離れ、養護施設に入っている子供だ。「安寿と厨子王」「母を訪ねて三千里」「みなしごハッチ」はいずれももの悲しい物語だが、自分は彼らと違い父母と繋がっているという安心感を与えてくれる物語でもある。

 今年、北関東以北の太平洋岸の地域では仏壇がよく売れた。仙台地区の仏壇店では本数ベースで二倍売れたという事例もある。なぜだろうか。

 東日本大震災により仏壇を失った人、仏壇が傷ついた人は無数にいるが、彼らは何故仏壇をそれほどまでに必要としたのだろうか。

 初盆を迎え、震災と津波で亡くなった方を先祖の霊として迎えるために仏壇は是非とも必要なものだが、そこには、先祖の存在が自分の命の証明になっているという湧き出る無意識がある。

 それは追悼・追憶、さらには追善というレベルに止まらない。自分の命の由来が分かるということ自体が生命維持となるからだ。

 今夏、ネット上では「墓参りは不要」という議論も交わされたようだが、それは父母も祖父母も自然と存在している者の議論に過ぎない。

 NHKのBS番組で「渡辺謙アメリカを行く 9・11テロに立ち向かった日系人」が七月、八月と放映された。太平洋戦中、日系人はアメリカ砂漠地帯の強制収容所に収容されたが、ドイツ・イタリア系移民は強制収容されることが無かった。明かに人種差別である。

 この番組の主人公である元アメリカ運輸長官で日系二世のノーマン・ミネタ(峯田)氏はこの収強制容所で幼少期を送っている。

 9・11テロの後、アラブ系・イスラム系米国人が飛行機に乗る際にはより一層の検査を行うようにという世論が湧き上がるが、それは「人種プロファイリング」つまり人種差別そのものであると反対したのがミネタ運輸長官であった。それは彼の人生が生み出した確固たる哲学でもあった。「日系人が太平洋戦争中に味わった人種差別が再びアメリカであってはならない」という信念だ。

 ミネタ元長官は番組の最後でアラブ系・イスラム系の若者に「先祖の宗教・言語・文化に自信を持ちなさい。先祖に誇りを持ちなさい」と語りかける。この言葉は日本人の若者に対しても同様に向けることのできる言葉だ。 

 9・11事件と東日本大震災はミネタ元米国運輸長官の「先祖観」により繋がるが、日本でその先祖観を直接支えるのは仏壇だ。仏壇は我々の命の原動力である。

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「懺悔を見せない僧侶 戒律復興が起こらない仏教会」 11年1月号洗心 [洗心]

 物事の本質が見えにくい時代になっている。
 例えば昨年業界の大きな問題となった「戒名」問題だが、戒そのものに関して全く論じられることがないので、この問題の背景にある本質的な問題が見えなくなる。

 戒名(料)が社会的な信任を得る最大の方法は僧侶が戒を持することだ。それが論じられなくて何が戒名問題だろう。結論から言えば、持戒僧が全くと言ってよいほど見当たらない事自体に問題の本質がある。

 全日本仏教会は昨年9月13日、わざわざ「葬儀は誰のために行うのか・お布施をめぐる問題を考える」というシンポジウムまで開いているが、所詮は堂々巡りの議論で、お布施の正当性を遠回しに主張しているに過ぎない。なぜ戒を巡る議論が出来ないかと言えば、出席者に持戒僧がいないからであり、そのこと自体が改革できないからだ。

 仏教に限らずあらゆる宗教団体は布施・寄進という経済支援がなければ成り立たない。もともと僧侶は修行すべき存在であり、経済活動ができないから布施はとても重要であり、仏教として檀那の意味もそこにあった。ところが修行持戒の僧侶が少なくなれば、在家からの布施の意味は薄くなる。

 宗教は組織の腐敗とそれに対しての革新運動を繰り返しながら歴史を作り上げてきている。

 最澄が大乗戒のシステムを導入したのも、鎌倉時代の叡尊に代表される戒律復興運動も、江戸時代の戒律復興運動も仏教のあり方を巡る運動であり、仏教の根幹である戒に戻ることを目指してきた。仏教は戒律復興運動を通じて時代を乗り越えてきたが、現代はこれだけ社会問題化しながら、全く戒律復興に対しての機運がない。

 キリスト教、特にカトリックが清々しいイメージを持つのは、一生結婚しない修道僧・修道尼がいるからだろう。

 肉食妻帯は1872年の太政官布告により公式に認められ、それ以降、家庭を持つ僧侶が当たり前になった。口の悪い評論家は「浄土真宗が主導して、明治以降の日本の仏教を真宗化」したというが、仏教には懺悔(さんげ)という素晴らしいシステムがあることを誰も主張しないのが不思議でならない。

 自分が接している中では天台宗が『法華懴法』という素晴らしい懺悔文を持つ。この懺悔文に初めて接した時、どの教えよりも素晴らしいと感激した。なぜなら、そこには自分自身のくだらなさが書かれていたからだ。

『たとえばそれは、猿が心を噪がして落ち着かざるがごとく、膠の身に着きて離すこと難きがごとし。処々に貪著を生じて、眼に耳に鼻に舌に身体に意におよぶ。眼と耳と鼻と舌と身体と意とは、貪著の心に応じて種々悪業をなさんとし、その積もれる果ては、我らが生まれかわり、死にかわる、あらゆる世界に満ち満ちて、更にまた、煩悩と苦しみと、邪なる行いとが難儀となりて、襲いかかりて絶えることなし。』(「六根段」のうち「意根段」、木内堯央編『法華懺法・例時作法』如意輪寺刊)。

 仏壇は感謝の場であると同時に誓願の場でもあり、懺悔という反省の場でもある。
 
 そのことが仏壇が家庭毎にある大きな意味ではないだろうか。
 
 仏壇業界では「仏壇復興運動」が展開されつつある。公正競争規約による産地表示と品質表示の実施は国の指導の下で現実のものとなりつつある。

 沢山の業界人が産地表示・品質表示により「心を噪す」ことになるが、これまで曖昧さを利益の種としてきた仏壇業界にとっては一大転換期になる。表示が「持戒」となるか「破戒」となるか、これからが正念場だ。
 見かけの経済問題だけに目を奪われることなく、我々が日本仏教を支えるという気概で臨む一年にしたい。

冬至の意味 月の満ち欠けの意味 10年12月号洗心 [洗心]

 この新聞が皆様のお手元に届く頃は、冬至をやや過ぎた頃であり、街中はすでにお正月を迎える気分で満ちているはずだ。
 冬至の時、真昼に太陽が地球に対して垂直に照らす地域(真夏の地域)は日本から遙かに遠い。日本から真南に下がればオーストラリア大陸の真ん中を東西に(地図で言えば左右)結ぶ線の上が冬至の正午に、太陽が地球に対してカンカンと垂直に照らす線となる。冬至の時のこの太陽が動く線を南回帰線と呼ぶ。日本から見ると太陽が上がる角度は低く、さらに北のヨーロッパでは太陽は地平をかすめるようにしか上がらず、北欧では終日ほぼ夜となる。つまり白夜である。日本でも北海道と沖縄では冬至における昼間の時間は随分と違う。北海道では日の出は七時で、十六時には日没となるが、沖縄・那覇では日の出は七時十三分で日の入りは十七時四十分。
 クリスマスは元々冬至の祭りがキリスト教と習合したものであると言われているが、夜が長い地域に住む人々にとって冬至は大切な季節を分ける日である。
 冬至の時に柚子湯に入ったり、カボチャを食べた人も多いだろうが、我々の季節に対しての感覚は確実に鈍っている。大きく減退、あるいは喪失しているとも言える。 季節観(感)と宗教観は密接な関係にあり、宗教観の喪失は季節観の喪失に拠る部分が大きい。冬至はエネルギーが最も沈む季節である、ということが即ち宗教観となっていたが、そのような感覚で季節の移ろいを感じる人は少なくなっているだろう。
 お正月は元々新月だった、という話をすると「えっ?」と驚く仏壇店が多い。同様にお盆はかつて必ず満月だったと話すと、やはり驚く仏壇店が多いことにこちらが驚かされる。
 日本の二〇一一年のお正月の月は早朝に見える三日月であり、一月四日には新月になる。この日は陰暦十二月一日で次の新月は二月三日。この日が中国のお正月(春節)であり、お正月を境とした前後二週間は中国の多くの宗教用具工場の製造がストップする。つまり、日本のお正月明けに発注された製品は途中一ヶ月の休みを経て仕上がるので、納期三ヶ月であれば四月にならなければ届かず、パニックになる仏壇店も登場する。
 来年、陰暦一月で初めて満月になる日が十五日。太陽暦カレンダーでは二月十七日であり、中華圏ではこの日が元宵節。ランタン・フェスティバルが各地で開催される。ちなみに陰暦一月十五日のことを日本では小正月と呼んできた。元宵節は上元の日であり、夏になると中元が巡って来る。
 宗教観を養う第一歩は、何も手を合わせることだけではなく、日の出や日没を感じ、月に満ち欠けを感じることにもある。
 来年もご愛読のほど、よろしくお願い申し上げます。良い年をお迎え下さい。

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「様付け」で檀家さんを呼ぶ時代? 10年11月号洗心 [洗心]

 いかにも耳に聞こえは良いのだが、消費者目線という言葉に違和感を感じることがある。

 消費者目線という言葉は、お客様の見方を考えながらという意味なのだろうが、目線という形容の仕方だと「上から目線は見下す感じ」「下から目線は媚びる感じ」であり、こう言う場合は「お客様の立場」という言い方が自分の世代での日本語であった。

 目線について言えば教育の現場でも同様のことが言われる。子供の目線で子供に向き合う、というものだ。まるで生徒はお客様で、教師はサービスを提供する側という位置付けがそこには見え隠れする。子供の目線で、という意味と消費者目線、という目線の位置は同様の高さであるが、なにかお客様や子供に媚びへつらう感がある。

 そこで何が起こるのか。「もっとサービスをせよ」という学校に対しての要求である。支払うものを支払っているのだからサービスを、支払っていなくても公共のサービスなのだからサービスを受ける権利がある、という苦情が学校に寄せられる。

 ありとあらゆるところで、同じような現象が起こっている。モンスタークレーマーの登場は市場原理による消費者目線登場以降のことではないだろうか。

 病院に行くと「○○様」と呼ばれることがある。自分がいつのまにか患者ではなく患者様になっていることに気付かされる。そうか、お金を払うのは自分であり、病院はそれで食べているのだから消費者であり患者様なのか、と勘違いする人もいるだろう。もちろん権威主義的で居丈高な病院はお断りしたいが、「○○様」と呼ばれることに違和感がある。何故かと言えば、医者や看護婦のお世話になるからで、彼我の立場は同じレベルのものではない。

 檀家さんがお寺にとってのお客様であるとすれば、檀家さんに対して「○○様」と呼びかける時代が目前に迫っているのかもしれない。これこそ究極の消費者目線であろう。

 檀家さんの立場でいうこと自体は否定しないが、果たしてそんなことで宗教家としてのお寺は成り立つのだろうか。

 お寺と檀家さんの関係もサービスの提供者と消費者という関係に変化している。檀家は代価を払うのだから消費者であり、相応のサービスの提供が必要であるということになる。50万円の戒名読経料に相応しいサービスとは何だろう。その価値を提供できるのは数%の僧侶だけだろう。

 仏壇は消費者目線ばかりが先行すると高級品はますます売れにくくなる。その上悪いことに、少なからず仏壇店が専門家ではなく、「単なる消費者」としての仏壇販売業者になってしまっている。お客様は消費者と呼ばれ、仏壇店には本来の意味での専門家が少なくなり、「価格・ドット・困ってしまう」状況が出現している。

 消費者目線だからお客様が安心するのではない。お客様を安心させる専門店としての知識と品格こそが大切だ。

 そのことを小紙では伝えて行きたい。

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「おひとりさまのお仏壇」 10年9月号洗心 [洗心]

 仏壇の場合、「亡くなった人の供養」や「感謝」という枠組みだけでは、必要性がさらに低くなるだろう。葬儀は何よりも死によって生まれる「遺体」によって成立し、墓石は「骨」という現物によって成り立つ。であれば、仏壇は何によって成立するのだろうか。

 業界の人たちの集まりに参加すると「お寺様にもっと布教をして欲しい」という言葉を本当によく聞く。でも何をどのように布教して欲しいのかさっぱり見えてこない。様々な経典を分かりやすく説いてもらうことだろうか、人生相談に乗ってもらうことだろうか、参禅などの仏教的な行事を行うことだろうか。

 おそらくは、それらがトータルに実施されることを以て「布教」と言われるのだろうが、それによって仏壇の販売が果たして向上するのかどうかは分からない。

 亡くなった人への供養の輪郭も実はぼやけてきている。なぜだろうか。それは後生つまり来世観が全く失われているからだ。それ以上に来世があると思う人が一体どれだけいるというのだろうか。

 ところで読者の皆さんは、「七分獲一」という理論をご存じだろうか?「ひちぶんぎゃくいつ」と読み、『地蔵菩薩本願経』や『盂蘭盆経』の解説書である『盂蘭盆経疏』などに書かれている。

「七分獲一」は追善供養をすれば、その功徳は先祖ばかりではなく、追善供養をする自分にも振り向けられるという理論である。それも先祖に行く功徳よりも自分に振り向けられる功徳の方が遙かに大きい。どれだけ多いかと言えば、八十五%が自分に振り向けられる。残りの十五%が先祖へと振り向けられる。

 仏壇需要の変化に関しては「核家族の増加」がよく言われるが、ここ十年で最も増加したのは単独世帯、つまり一人暮らしの世帯である。国勢調査によれば昭和六十三年には七百八十五万世帯であった単独世帯は平成十七年には千四百四十五万世帯まで増加している。

 単独世帯で社会問題となっているのが独居老人であるが、未婚などで一人暮らしのまま老年を迎える中高年も多いはずだ。

 単独世帯の方々の中には、お仏壇をお持ちの方もいると思うが、お仏壇をお持ちでなく、多生来世観のある方には「七分獲一」という考え方があることを是非紹介して欲しいと思う。それはまずお寺様の仕事である。

 また、「七分獲一」と合わせて生前に自分のために行う「逆修」も単独世帯の増加の中では知られるべきだ。

 先祖供養を行うことで、自身の後生の安楽を祈り、逆修により来世のための功徳を積んでおく。仏教の思想に沿った行いであるが、全く実行されていない思想でもある。

 単独世帯の増加、つまり「おひとりさま」の増加の中にも仏壇需要は潜んでいる。

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「社会的装置としての仏壇 」10年10月号洗心 [洗心]

 仏壇は信仰の産物であると同時に社会制度の産物であるということは見落とされがちである。また、仏壇は仏教の産物であるということは語られるが、儒教からの影響などは位牌を除いて語られることがほとんどない。

 信仰ということで言えば、信仰さえも社会制度や時代の産物であることが多い。信仰が薄くなったということは、社会制度や時代背景の変化の影響を受けてのものであることが大半だ。

 もちろん、社会や時代に影響されない信仰を持つ人がいることも確かだが、仏壇を中心とした信仰や宗教生活が大きな転換期を迎えていることは確かである。

 周知の通り仏壇が誕生するのは徳川幕府時代である。

 檀家制度の登場が仏壇誕生の最も大きな原動力となった。この檀家制度という発想が、徳川幕府の全くオリジナルな考え方なのか、もしくは他の国々でモデルとするような制度があったのか興味がもたれるところであるが、全ての人がどこかの寺院に帰属するという制度、寺院の檀家として葬式仏事を行う制度、その制度を支える仏壇という装置という仕組みが、十八世紀初頭には確立する。

 そこには家族、一族、地域共同体という枠組みがあり、仏壇はその枠組みを固める要の役割を果たしてきた。

 家族にあって仏壇は財産継承の装置であり、先祖供養を行う中での道徳・倫理を培う大切な役割を担っていた。その意味で仏壇は江戸時代以降の社会的装置として、日本そのものを支えてきたとも言える。

 社会的装置としての仏壇の役割が低下していることが我々業界が直面している大きな問題である。

 社会的装置としての役割に代わって、個人的装置としての役割を業界は期待するが、それはまだ大きく軌道に乗ったわけではない。家族や一族、共同体としての仏壇から個人の信仰や祈りに根ざす祈りの装置を期待しているのだ。

 個人的装置ということで言えば、故人や先祖が成仏すするという祈りは薄くなり(ほとんど無くなり)、自分自身が癒されるということが強調される。祈りは他者に向けられるものではなく、自分自身に向けられるものとなり、祈りがカバーする世界は著しく狭くなっている。まさに個人的装置化と言える現象だ。

 仏壇にしても寺院にしても、大きく依存してきたのは家・家族であり何かの共同体であった。その家・家族・共同体が変化する中で仏壇も寺院も変化を求められているのだが、どのようにして良いのか分からない、という困惑が仏壇業界、寺院を覆う。 個人の信仰を基盤にするほどの強力な動機付けを仏壇も寺院(信者寺は別だが)も持てない。新興宗教は家や家族、共同体よりも個人の救済に力を注いできたが、その新興宗教のあり方とは対照的であると言える。

 目先どのようになるのか、どのように販売すれば良いのかという議論ばかりが聞こえるが、仏壇を支える宗教的な背景がどこにあるのか、個人の信仰が仏壇にどのように結びついて行くのかという道筋を、明確に我々は示してゆく必要がある。

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「仏壇を知らない世代の登場」 2010年8月号洗心 [洗心]

 お盆がどのような行事なのか知っている人は一体どの程度いるのだろうか。日本全体で言えば、二人に一人ではないだろうか。お盆という言葉自体は「お盆期間中の交通渋滞」「お盆の帰省ラッシュ」という言葉で知られているものの「ご先祖様が帰ってくる」というレベルで知る人は、年々減少しているに違いない。仏壇店の多くは「信仰離れ」「宗教離れ」と嘆くが、お盆を伝えるメッセージを発信するところは少ない。

 同様な意味で仏壇を知る人も減少していくことになる。仏壇という用語を知っていても、祖父母の家にも、両親の家にも仏壇がない、という人が都市圏では増加する。つまり仏壇体験ゼロという人だ。

 一方、仏壇業界は「お盆を知っている」「仏壇を知っている」という前提のもとで仏壇を販売しようとするので、とんでもないミスマッチになっている可能性が高い。

 業界に求められるのは「はじめてのお仏壇」という姿勢だ。全くはじめてお仏壇に接する、お仏壇のことを知らないという人に対しての営業スタイルだ。

 日本の全世帯数は約五千万世帯であるが、このうち仏壇を保有する世帯は三割〜四割であろう。つまり、大半の世帯が仏壇を保有していない、ということになる。ただし、この二十年で世帯数構成は大きく変化している。昭和六十三年から平成十七年への変化を見ると、単独世帯は789万世帯から1445万世帯に、夫婦のみの世帯は521万世帯から963万世帯に増加している。よく「核家族化」が仏壇観の変化を生み出したと言われるが、夫婦と子供からなる所謂核家族はこの二十年で1518万世帯から1464世帯へと減少している。

 この二十年間に限って言えば単独世帯の増加が仏壇観の変化を生み出してきている。単独世帯という場合は高齢者だけではなく、未婚者の単独世帯も多く単独世帯の増加は文化の断絶を生み出す。それは「お盆を知らない」「仏壇を知らない」世帯の増加に他ならない。

 従来からのお仏壇を当たり前に購入できる世帯は恵まれた世帯である、ということを業界はまず認識しなくてはならない。その上で、「お盆を知らない」「仏壇を知らない」世帯に対してお盆をしたもらう、仏壇を知ってもらう活動をそれぞれの仏壇店が始めるべき時期になっている。それは「はじめてのお仏壇」世帯への語りかけに他ならない。

 業界の堅実な推移のために絶対必要なことは「はじめてのお仏壇」という方々をどのようにして取り込んで行くのかにかかっている。

2010年8月号洗心

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島田正巳という憂鬱 [洗心]

 宗教学者島田裕巳の名前を認識するようになったのは、オウム真理教を通してのことだが、その島田が『葬式は、要らない』『戒名は、自分で決める』など一連の著作で世間の耳目を集めている。

 島田の宗教学者としての人生は、オウム事件によって完全に終わったと個人的には思っていた。島田はオウム真理教を擁護し、地下鉄サリン事件後も警察捜査を批判し、オウム真理教がサリンを作ったことにも「その動機が見いだせない」と発言し、社会の強烈な批判を浴び、日本女子大学教授の座を追われた。

 小紙の書評欄「今月の一冊」で以前島田の著作『日本の十大新宗教』を取り上げたことがあるが、島田は新興宗教のあり方に非常に親近感を覚えているように感じる。その親近感は、信仰の自発性という点にあるのかもしれない。

 島田自身はヤマギシ会なる団体に入り活動していた。ヤマギシ会は農業・牧畜業をメインにしたコミューン団体ということであり、島田は最新刊の『無欲のすすめ』の中でヤマギシ会の共産主義的な「無所有社会」を熱心に紹介し、あげくの果てには「無欲の勝利」という章立ても登場させている。

『葬式は、要らない』の要点はとどのつまり「葬式に金をかけるな」という一点だけで、人間のつながりや社会、地域社会における仏教や葬儀にあり方に関しては全く無関心。「遺族が深い悲しみにある状態のなかで、葬式をあげなければならないということ自体が、辛くて悲惨なことに思えてくる」と『葬式は、要らない』は締めくくるが、果たして全ての人がそうであろうか。それとも島田が関わった葬儀がそうであったのだろうか。

 寄進は「貧者の一灯」以来、仏教の本質でもある。今回の親鸞聖人七五〇年大遠忌などは、寄進の固まりであるし、『仏説盂蘭盆経』は僧への供養を勧めるものだ。

 島田がかつて属していた「ヤマギシ会」では、入会と共に自分の全財産を供出させるという制度があり、退会した会員との間で裁判も起こり、ヤマギシ会側が敗訴となり一億円を返還することもあったが、ヤマギシ会を賛美する島田が戒名料の多寡を言うこと自体が噴飯ものだ。

『無欲のすすめ』の中で島田は次のように主張する。

「もし仮に日本人で人件費がかからないシステムを作り上げることができたとしたら、これほど効率的なことはない。まさにヤマギシ会はそうした体制を作り上げた。この組織は無所有の制度を生かして驚異的な発展をとげたのである」

 無所有の制度を主張する彼の思想に接して感じるのは薄ら寒さだ。読めば読むほど著者・島田との距離感を感じ、島田の孤独感に憂鬱を強く感じる。

『戒名は、自分で決める』の中で島田は宗教学者らしく「戒名は大乗仏教ではない」と言うが、では、戒名を自分で決めることが大乗仏教なのだろうか。

 仏壇・葬儀・戒名は人と人、人と先祖、人と子孫を結ぶ素晴らしいシステムであることに強い誇りを感じるが、皆さんは如何だろうか。

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産地表示に見える仏壇店の潜在意識 [洗心]

 仏壇における産地・品質表示への取り組みが、これから大きく進展を見せようとしている。

 どの国や地域で作られたのか、どのような素材で作られたのか、その情報を正しくお客様に伝えるという作業が産地表示・品質表示であり、世間では全く当たり前のことに作業だ。数十万円から数百万円もする製品を持つ業界で産地表示ができない業界は珍しいのではないだろうか。

 これまでも国内製品という表示は全宗協によってタグが付けられてきた。しかし「中国製」「ベトナム製」「タイ製」という表示を実施する仏壇店はほとんどなかったはずだ。名だたる老舗と言われる仏壇店でそのような表示をするところはまずない。

 品質表示や産地表示を実現することができなかった一つの理由は「表示をしない方が儲かる」なのかもしれないが、心理的な理由として以下のことを想像してみたい。

 仏壇店は「工芸」を謳うために、どこで作られたのかということが非常に大きな付加価値となる。地元で地元の職人が伝統的な技と材料を使い作った仏壇が「本物」であるとすれば、それ以外の仏壇は「偽物」あるいは「本物ではないもの」になる。つまり、海外製というタグを付けることは「偽物」と表示をすることに他ならないという意識が働く。実際に取材をしていると「本物」とそれ以外という意識を強く持つ仏壇店は非常に多い。本物の根拠を漆に求める場合もあれば、本紫檀に求める場合もある。あるいは自店の歴史と看板により本物と説明する場合もある。

 潜在する意識の中には「仏壇は先祖が暮らした環境に近いものが良い」という呪術的な要素も含まれ、この潜在意識が地元の材料、地元の職人が作った仏壇が良いという条件を作り出し、五感レベルでの表層意識を支配する。地元が無理であれば、国内というレベルに条件を緩和する。「言葉が通じる国内の材料と職人」という潜在する意識だ。

 なぜそのような潜在する意識が生まれるのかと言えば、仏壇が自分や一族の先祖をお祀りするものだからだ。仏壇にお祀りするご先祖様が親しんでいた材料や技法、材料で作られた仏壇が、我々とご先祖様を結びつける。つまり、地元産であること、国産であることは先祖との結び付きを確固なものとする呪術であり、我々はその呪術に金縛りにされて来た。仮に「海外産」と表示すれば、先祖との結び付きが弱まるという無意識がうごめく。生者と共にご先祖様をお客様とする仏壇の特異性がそこに働く。

 父祖の代から仏壇製造販売を生業としてきた人は、以上の意識・無意識が二乗、三乗で働くのでさらに理想としての「自社産」「国産」にこだわり、表示を難しくさせる。

 産地表示・品質表示は日常生活レベルの問題であるが、実施することによって明かにされる問題は、潜在する無意識や宗教的な意識である。

 また、地元産や国産の仏壇が売れる、ということは、以上のような意識・無意識の働きをお客様と共有できるということもである。

 現実的には仏壇店で展示されている仏壇の大半が海外製品であり、お客様に情報開示をする必要な時代であるが、製品内容の報告はご先祖様に対しても必要だろう。

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