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仏壇の起源 床の間との関係(3) [仏壇の歴史]

 床脇棚の雛形は「四十八棚」あるいは「五十棚」という基本がある。つまり、棚の基本形として四十八、あるいは五十のパターンが成立していたということになる。
 その中に見えるのが「仏棚」と「神棚」である。
 神棚がいつどのような形で祀られてきたかということは、この項のテーマではないが、元禄時代には図にあるような神棚が棚の基本形のひとつであった。
 一方、仏棚は花頭窓を特徴とする棚である。この棚はどのような使われ方をしたのであろうか。
 仏壇の起源としてこれまで挙げてきたのは「盆棚」と前述したように禅宗建築の中に見ることができるような「位牌棚」だ。
 盆棚は言うまでも無く、お盆の時に先祖の霊や三界の諸霊を招くための棚であり、民俗学者の柳田國男はこの棚をもって仏壇の起源と考えた。
「佛壇などといふ言葉が標準語になって居る為に、誤解をする人がまだあらうが、『玉棚の 奥なつかしや 親の顔・向井去来』佛壇は本来常設の魂棚に他ならぬのであった」
 向井去来(一六五一~一七〇四)は元禄時代を生きた人で、去来の時代には様々な棚がすでに成立していた。当然、花頭窓を備えた仏棚も見ていたことであろう。
 柳田國男がお盆の魂棚を仏壇の原初的な姿として見た最大の理由は、魂棚に先祖の位牌を祀るからではなかっただろうか?つまり柳田國男は仏壇を「仏像をお祀りするもの」としてではなく「先祖の霊を祀るもの」として見ていたことになる。
 一方、柳田國男の魂棚仏壇起源説に関しては、民俗学の立場からは最近、異論が唱えられることが多い。常設の魂棚が仏壇化したにもかかわらず、なぜ、魂棚のみを独立してお盆のときに作るのか、というのがその見方だ。

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仏壇の起源 「床の間」との関係 (7) [仏壇の歴史]

江戸時代は、現在見ることのできる日本建築の様式が確立し、全国に広がった時代でもあった。その元になったのは先月号で紹介した銀閣寺東求堂に見ることができるような禅宗建築であり、日本建築の象徴ともいえる床の間も禅宗の建築の中から生まれた。

 一方、禅宗と位牌祭祀は非常に関係が深い。

 日本の位牌祭祀の端緒は、鎌倉時代に入宋し禅を学んだ僧侶が伝えたものであるとされるし、禅宗建築においては、本堂の左右に位牌棚を設けることは一般的に行われている。銀閣寺の東求堂においても、建築当初は現在で言うところの床の間に位牌を祭祀していたと考えられ、江戸時代の改修で、現在の押入れのような空間に棚を設け、そこに位牌を祭祀することが行われてきた(現在では、創建当時の姿に戻されている)。

 また、前々回のこの連載では、室町時代後半に成立した床の間飾りや棚飾りの教則本『君台観左右帳記』は、江戸時代において広く読まれ、現在見ることができるような東本願寺の鶴亀の三具足が床の間飾りの代表例として記載されていることも指摘した。

 玄関、という誰でも知っている言葉があるが、玄関という言葉も禅宗建築様式の言葉であり、江戸時代にはこの言葉が定着した。

 さらに、棚に関して言えば、江戸時代初期には棚のサンプル見本帳が広まった。サンプル帳は「雛形」と呼ばれ、棚にとどまらず、社寺建築、欄間彫刻などの雛形も元禄時代には成立した。これらの雛形は現在の日本建築にもそのまま当てはまるサンプル帳でもある。

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仏壇の起源 「床の間」との関係 (6) [仏壇の歴史]

室町時代の住宅構造を知る上で貴重な遺構となっているのが銀閣寺東求堂。銀閣寺は室町将軍足利義政によって文明十四年(一四八二)から同十八年にかけて建てられたもので、銀閣と称される観音殿が有名なのだが、東求堂の一室同仁斎は現存する書院造の最も古いものであり、書院造りの成立を考える上で重要なものとなっている。

 東求堂は持仏堂のほか、書院である同仁斎、そして東の四畳、西の六畳という四部屋で構成されているのだが、東求堂は天正年間、嘉永年間と二度改修が行われ、建築当初の姿は昭和三十九年から四十年にかけての解体修理によって初めて明らかにされた。そして解体修理によって明らかにされた東求堂の姿は仏壇形式の変遷にとっても貴重な資料となっている。

 嘉永四年の第二次改修で持仏堂はその構造が大きく変化した。

 持仏堂は平面図にあるとおり、昭和の改修後は南面するかたちで須弥壇が置かれ、西面する壁面には二段の床と棚が設けられた。改修工事は創建当初の東求堂の構造を確認することが大きな目的のひとつであり、持仏堂の形もこの改修工事によって創建当時のものに再現された。

 では、持仏堂は嘉永の改修でどのように変えられ、昭和の改修工事で復元されたのだろうか。
 嘉永の改修工事では須弥壇が取り除かれた。その代わりに須弥壇があった奥の北側壁面中央を襖四枚の引違とし、その襖の奥に開山像を安置。

 また、嘉永の改修工事では西面する部分は向かって右が位牌棚、左が掛軸を祀る仏壇に変更された。それ以前は向かって右が引違二枚の襖の奥に棚、向かって左は引違四枚の襖の奥に二段式の床という構造であった。

 この部分に関しては写真を見て頂くとよく理解できるが、嘉永の改修工事以降では祀られる位牌棚の位置そのものが高くなり、実際に位牌をお祀りし供養するという点では優れた構造のものとなっている(内部は雛壇)。向かって左側は掛軸を祀ってあるが、構造的には位牌棚と同様のものだ。
 この位牌棚の構造は、江戸時代の民家の中に設けられた位牌棚としての仏壇に似ている。東求堂では襖が使われているが、この部分は組子障子であれば関東地方でも多く祀られてきた位牌棚仏壇そのものとなる。

 昭和の改修工事によって創建当初の姿に東求堂は蘇ったわけだが、掛軸を祀っていた部分は現在でいうところの床の間に近い形になっている。そこは蹴込もある二段の床なのだが、ここでは位牌が祀られていた。

 現存する民家の中で最も古い形式の仏壇を持つと言われるのは大阪府のものだが、ここでの仏壇は東求堂創建当初のものと似たものであり、現在に至るまで位牌が数多く並べられている。

 こうした位牌棚の構造は「位牌床」とでも言うべき構造のものであり、江戸時代初期までは位牌床に位牌を並べるということが東求堂のみならず、民家でも行われていた。

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仏壇の起源 「床の間」との関係 (5) [仏壇の歴史]

「御飾記」には本尊と両脇掛け、その前に押し板(可動式の床の間)を置き、押し板の上には卓、その卓の上には鶴亀燭台を置くという図が描かれている。「御飾記」には「押板には必ず三幅一対の絵を掛けて、前には三具足、両の脇には一対の花瓶を置くなり」とある。四幅の絵になった時には三具足を用いてはならない、とある。
 江戸時代の香道書のひとつである「蜂谷書院飾」によれば、釈尊の掛軸を中央に、両脇に普賢文殊を掛け、釈迦の前には鶴亀の燭台を持つ五具足を卓の上に並べ、両脇には花瓶を置き「道場荘厳真雙飾五具足九飾」としている。
 また江戸時代に書かれた「小笠原流座敷飾」では達磨の掛軸を中心にして左右に龍と虎の絵を掛け、達磨の前には鶴亀の燭台を持つ五具足を卓の上に並べ、両脇には花瓶を置き「上段真乃両飾」としている。ここで言う上段とは元来、貴人が座る一段高くなったところを指すものだが、ここでは床の間と理解してよいだろう。
 仏壇の起源とは直接関係ないが、「君台観左右帳記」「御飾記」とそれらの同系本によれば、仏画を床の間に掛けたときには、鶴亀燭台を必ず用いている。釈尊や達磨が中央に置かれようとも、鶴亀燭台が含まれる具足揃えであり、この時代、床の間に仏画を掛ける時には鶴亀燭台をその前で用いることが流行していたことがよく分かる。もちろん、この鶴亀燭台が真鍮磨き製品なのか金メッキ製品なのか渋い色付けの製品なのかは分からないが、鶴亀燭台と言えば真宗大谷派の正式な仏具であり、そうした意味で大谷派は当時流行していた道具を採用したということになる。
 もちろんこれらの本には仏画飾りだけではなく、山水の掛軸飾りのことや違い棚での置物のあり方なども掲載されているのだが、掛軸の飾りに関しては、仏画掛軸が優先され掲載されている。
 さて、床の間に位牌が置かれるということは現在ではほとんど見ることができないが、銀閣寺東求堂では、位牌棚と言いながらも床の間のようなところが位牌棚とされている。

仏壇の起源 「床の間」との関係 (4) [仏壇の歴史]

 仏壇から床の間が生まれたという説がある(床の間から仏壇が生まれたのではない)が、本当だろうか。もし、この説が本当であれば仏壇のひとつのあり方が床の間ということになる。

 床の間が仏壇から生まれたという説を最初に唱えたのは江戸時代の故実家・伊勢貞丈(いせさだたけ、俗にていじょう・一七一七~一七八四)である。以前にも紹介したことのあるものだが、ここで再掲したい。

「座鋪の上座に『床』というものを作る事、上古になき事なり。鎌倉の頃以来のことか。(中略)禅法世にはやり、出家の風俗、武家に移りたる事多し。床も、仏家にての仏壇なり。本尊を置く所なり。床に仏絵をかけ三具足をかざることなど、皆出家の風なり。」(「貞丈雑記」)

 ここで言う仏壇とは床(とこ)に仏絵をかけ三具足をその前に置いたものであり、いわゆる現在見る仏壇とは違うものだが、南無阿弥陀仏の六字名号を床の間に飾り、その前に三具足を飾ることは在家・寺院を問わず行われており、業界にとっては見慣れた光景だ。

 床の間飾りは「君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)」や「御飾記」に詳しい。「君台観左右帳記」と「御飾記」はいずれも1500年台初頭に相阿弥によって書かれた。内容的には座敷飾りの教科書であり、当時のインテリアブックと言ってもよい。原本は残っていないが、写本やこの「君台観左右帳記」「御飾記」を手本とした系統本が数多く残っている。 

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仏壇の起源 「床の間」との関係 (3) [仏壇の歴史]

 室町時代中期に成立した書院造りが現在の日本建築の原型になっているということを前回は述べた。

 建築史上、寺院や神社以外のもので最初に登場するのは平安時代の寝殿造りであり、寝殿造りでは畳を敷き詰めた空間や、襖による仕切り、障子による明かり取りはなかった。

 寝殿造りでは畳は敷き詰めるものではなく人が座る場所として繧繝縁の畳を数畳敷き、さらにその上には茵(しとね)を敷く。部屋の仕切りは襖ではなく几帳であった。もちろん床の間はない。

 源氏物語絵巻で十二単(じゅうにひとえ)を着た女性が描かれている場面を見たことがある人も多いと思うが、そこで描かれているのが寝殿造りだ。この寝殿造りの内部では仏壇や先祖の霊を祀る祭壇は使われなかったようだ。

 建築史上では寝殿造りに続いて鎌倉時代の武家造りがあり(諸説ある)、続いて書院造りとなる。

 書院造りが登場する一五〇〇年前後になると、室内に装飾として花を活けるということが行われるようになる。これは当時の生活を描いた資料から検証されているもので、『慕帰絵詞(ぼきえことば)』には実際に机の上に花立を中心として左右に燭台と香炉を並べ、枝ぶりのよい花を活けている場面が登場する。

 教科書的に言えば、それまで花瓶に花を生けるという行為は仏前で行われる供養のためのものであり、花を生けることを装飾的に行うようになったのは室町時代中期になってからのことだ。その装飾的な花生けのことを立花(りっか・たてばな)と呼び、池坊専慶は立花の創始者としてよく知られた存在だ。

 池坊専慶(生没年不詳)が京都六角堂で知られる頂法寺の僧侶であり、一四六二年、武将に招かれて金瓶に草花を立てて感嘆させたという記録が残っている。

『慕帰絵詞』には柿本人麻呂の絵像を中心として左右に墨竹・墨梅の絵を掛け、その前に香炉を中心として花瓶を置くという絵がある。この場面は覚如が歌集『閑窓集』に収録する歌を、車座になった人々が詠んでいるもので、一種の文化サロンでの光景を描いたものだ。

 掛軸も立花も香炉も、この時代になると信仰のためのものではなく、生活の潤いとして独立したものとなる。

 床の間の前身として押し板という床の間の板の部分だけ取り出したような可動式の棚があると前回書いたが(押し板がどのようなものであるのかという定義は難しい)、床の間が書院造りの中で登場したことは、掛軸や花瓶・香炉などの文物を恒常的に飾る場所が生まれたということになる。今日でも床の間の使われ方は同様のものであろう。信仰の場所というよりも、飾りの場である。

 しかし、床の間の起源は本当に仏壇なのだろうか。床の間の起源が仏壇であるとしたのは伊勢貞丈(一七一七~一七八四)であるが、伊勢貞丈が考えた仏壇とはどのようなものであったのだろうか。
『君台観左右帳記』(くんだいかんそうちょうき)という室町時代に書かれた書物がある。『君台観左右帳記』は室町将軍の座敷飾りについて書かれたもので、能阿弥(一三九七~一四七一 連歌師・画家)と相阿弥(?~一五二五 画家)によって書かれた。
 この『君台観左右帳記』には大谷派で使われる鶴亀燭台も登場するのだが、次回は『君台観左右帳記』に書かれた座敷飾りと「床の間」について見ることにする。


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仏壇の起源 床の間との関係(2) [仏壇の歴史]

 はせがわ(福岡)社長の長谷川裕一氏が著した『お仏壇の本』には次のように書かれている

「お仏壇が普及する以前は、一般民衆の家の中には氏神や祖先を祀る祭壇がいろいろな形で置かれていました。それが室町時代に『書院造り』という住宅形式ができた時、床の間に変化しました。その床の間が遠い先祖を祀る神棚と、近い先祖を祀るお仏壇に分かれたのです」(十九頁)

「お仏壇はこの床の間から分化したものです」(二十三頁)

 長谷川裕一氏がどのような資料をご覧になって、このような説を展開しているのか分からないが、この説によれば、祭壇から床の間が生まれ、そこからさらに神棚と仏壇が生まれたという流れになる。つまり仏壇は床の間から生まれたという説(伊勢貞丈の説によれば床の間は仏壇から生まれたことになっている)になるのだが、どのような論拠なのか是非教えて欲しいと思う。

 銀閣寺(慈照寺)東求堂には位牌壇も板敷に設けられている。この仏間には銀閣寺を造営した足利義政像、そして仏像を安置する仏壇(まさしく仏壇)が備えられている。

 仏壇の起源についてはこの連載のはじめに持仏堂説と常設の魂棚説(盆棚のこと)の二種類を挙げたが、ここで考えなくてはならないのは床の間と仏壇との関連、そして禅宗寺院建築の中で生まれた位牌棚と仏壇との関連であり、禅宗寺院本堂の本尊脇に設けられる位牌棚と仏壇との関連は特に注目する必要がある。

 また江戸時代初期には様々な棚の形式を記した雛形(見本帳)が生まれており、その中には「神棚」と「仏棚」も含まれている。

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仏壇の起源 「床の間」との関係 (1) [仏壇の歴史]

 床の間は日本建築の象徴であるが、床の間が仏壇から生まれてきたというよく知られた説がある。

『座鋪の上座に「床」という物を作る事、上古になき事なり。鎌倉の頃以来の事か(中略)。禅法世にはやり、出家の風俗、武家に移りたる事多し。床も、仏家にての仏壇なり。本尊を置くところなり。床に仏絵をかけ、三具足をかざる事など、皆出家の風なり』

 この一文は江戸時代中期に伊勢貞丈(一七一七~一七八四)によって書かれた『貞丈雑記』に見ることのできる「床の間の起源」である。

 その意味は「座敷に床を作るということは古くはない習慣であったが、禅宗が流行しはじめると仏教が武家に広まり、本尊を置く床を作るようになった。その床が仏壇の起源でありそこから床の間が生まれた」というものだ。

 現在見ることができる日本建築は室町時代中期に生まれた書院建築を原型として発展してきた。

 書院建築の代表例としてよく使われるのが銀閣寺(慈照寺)東求堂であり、屋内は襖障子で仕切られ、天井が付けられ、室内には違い棚・付書院などが付けられている。違い棚・付書院が付けられている畳敷の空間は「同仁斎」と呼ばれ、書院造の代表例とされる。

 また床の間の原型と言われる押し板も書院建築を代表するものだ。

 押板とは床の間の床の前身とも言われるもので、一般的に言えば可動式の棚であり(建築史上は諸説がある)、それが固定式になったものが床の間とも考えられている。

ここから伊勢貞丈の「床の間仏壇起源説」を考えれば、本尊を祀るための可動式の仏棚(仏壇)が、本尊を祀る以外、例えば花・香炉・掛軸を飾るものとして使われるようになり、やがてそれが固定化し床の間になったという流れになる。

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